kanossaのブログ

歴史小説や時代小説を綴ることを中心としたブログです。
簡単に読めるものを書いていきます。最初は、戦国時代
に主君大内義隆を殺害し、厳島の合戦で毛利元就に敗れ
散っていった陶晴賢(五郎→陶隆房→陶晴賢)を主人公
とした「TAKAFUSA」を書きすすめます。

TAKAFUSA その8 陶晴賢 茶色と黒の瞳を持つ男vs五郎の父(一)

まえがき
今は陶晴賢子供時代のお話となっています。兄を失い、また愛犬タキを失うという悲しみも体験しながらも、父・母に厳しくも温かく育まれ・・・また、又二郎・百乃介・与吉などの仲間にもめぐまれ、浜の網元の娘お栄にほのかなあこがれを抱く五郎、泣いたり笑ったり危機に陥ったり・・・多感な少年時代をすごしています。今日は牛田山の麓のお堂が舞台です。五郎と与吉が人さらいの賊と対決します。


その8(一)


「雨ですね」と与吉が言った。


その日、昼過ぎから五郎と与吉は、牛田山の麓を流れる川に釣りに来ていた。


一時間後くらいから外が急に暗くなり雨がぽつぽつきたのである。


「そうだな、全然鮎も釣れないし・・・雨も激しくなってきた・・・
そうだ、あっちにあるボロお堂の軒下で雨やどりしよう」と五郎。
「はい」


大粒の雨が二人の上に落ちてきていた。
二人は川から四百メートルくらい離れた、道端にあるお堂の軒下に入った。


「与吉、すげえ雨だったな。びしょぬれだぜ」
「五郎様、ほんとですね・・・あれ、今日はお堂の扉があいていますね」


「本当だ。与吉・・・ちょっと入ってみようか」
「勝手に・・・」


「かまわんだろ、こんなボロお堂」
と言いながら、五郎は階段をのぼってお堂に入った。与吉も続いた。


首をまわし、お堂の中を見渡した与吉は、
「思ったより、広いんですね・・・」
「そうだな」


二人は隅の方に腰をおろして他愛ないおしゃべりをしていた。


 


するとその時、数人の人の声や物音が聞こえた。
だんだんその音が大きくなってくる。


やはり勝手に入ったことが後ろめたかった五郎が、
「奥に隠れよう!」と言い、
二人はお堂の奥の間に入った。


入ってきた痩せた男が、
「兄貴、床が濡れてますぜ!」


「乞食がなんかが寝っ転がってたんだろ。もし戻ってきたのを
見つけたら、わかってるな」
と目の据わった兄貴と呼ばれた男がそういうと、
痩せた男が、両手で斬るマネをした。
「そうよ」


五郎たちは、人相の悪そうな奴らの言葉を聞きながら・・・
息をひそめていた。


続いて二人の男が荷車で運んできた長持をお堂に二つ運び込んだ。
兄貴が、
「おい開けろ、そのままにしとくと死んじまうかも・・・
死んだらおじゃんだ。しっかりうまい空気を吸わしてやれ」


長持ちから出てきたのは、十五・六歳ころの娘三人と三十歳を少しくらいの一人の女
だった。お堂の端に手足を縛られたままおかれた。


みなぐったりしていたが、年かさの女が、
「なんでなの・・・」と涙ながらにつぶやいた。


お堂から聞こえてくる話や物音を聞き・・・
息をひそめていた二人は・・・ただならぬ状況に気が動転していた。


しばらくするとまた外から物音がした。また新たな荷車が着いたのである。
お堂の中にいた兄貴が、
「お頭(かしら)が着いたぜ」と言った。


一人の男が入ってきた。続いて男が二人、長持をもって入ってきた。


お頭とよばれた男は、
「お前らの方が早かったんだな。」


兄貴が、
「あっしらもさっきついたばっかりで・・・」


「そうか、船の手はずが整った連絡が来るまで、ここで待機だ・・・
それがいつかは読めねえから・・・深酔いせん程度に酒でもなめとけ」
と低いどすのきいた声で言った。


男たちの酒盛りが始まった。お堂の端の方には後から来た三人の娘ふくめて、
七人の女たちが、しばられたまま座って寄り添っている。呻いている娘もいる。


五郎は、思い切ってほんの少し隙間から覗いてみた。
一人の男に目が吸いついた。普通の顔をしているだが・・・
何だかやけに気味が悪い。


「お頭」と言う声に続いて、
その男がしゃべりだした。


(こいつが一番わるいやつだな)と五郎は思った。
(・・・わかった!右目の色と左目の色が違う・・・だから変な感じがしたんだ。)


そう、その男、右目は真っ茶の瞳、左目は墨のような黒い瞳を持っていたのである


この男が率いる賊は、当時横行した「人取り」と呼ばれる人さらい集団であった。
人をさらってきては、明、琉球、東南アジアなどに売り払うのである。
とくに若くて美しい女は相当いい金になった。


与吉も隙間から五郎とともに覗いた。目の前に広がるのは異様な光景であった。


一人の軽く酔った男が、一人の娘に近づき、顎に手をやり、うつむいた顔をあげさせた・・・
「姉ちゃん、いい女だな・・・」と言い顔を近づけようとすると、年かさの女が、
「あんた、やめなさい!」と叫んだ。


あがった女の顔をみて驚愕したのは与吉であった。
「あ・・・」と声が洩れそうな口をあわてて手でおさえた。


そして五郎を見て必死に・・・目で訴えた。
五郎も、その娘が与吉の知り合いであろうことを察した。


与吉の家の近くに住んでいた幼馴染の姉のお峰であった。与吉は三・四歳のころはよく手をひいて遊んでもらっていたのである。


お頭が、
「やめておけ、顔に傷でもついたら値がさがる。
こやつら載せた船が出たら、いやというほど女抱かせてやるから・・・」


それを聞き、女に近づいた男は元の位置に戻った。


お頭が立ち上がり、
「この年増は、売りものにはならんぞ・・・なぜ連れてきた」
「いえっ、その娘と一緒にいたもんで、つい・・・」


「ふん、女!こっちの脇に寄れ」
と言われ、女は拉致された娘たちから少し離れた。


お頭が刀を抜いた。
「人の一生とは不合理のものよ・・・真面目に生きたとしても・・・
必ず幸せになれるわけではないのじゃ・・・」と言い、女の首に刀を突き付けた。


「助けてください、お願いだから・・・」
女の顔が恐怖にゆがんだ。手を合わせて懇願している。


「だから言うておるじゃろ・・・不合理なものなのじゃ」と言いながら、
女の首に刀をぶすりと刺した。


「ああ」という声を洩らしながら、女は倒れ伏した。血の匂いが広がった。


娘の一人が失禁した。


お頭が
「おう、こわかったな、こわかったな、かわいそうに・・・・
お前、きれいにしてやれ!」
「へい」といい一人の男が動いた。 


このお頭とよばれた男、商家に生まれたのだが、目の色が右と左で違うため、実の両親からも・・・気味が悪い子と・・・いう扱いを受け、周りからも目のことで虐げられながら・・育ってきた。十三歳で家を飛び出し・・・転落の一途をたどり、盗み・強姦・殺し・・とあらゆる悪いことに手を染め・・・今は人さらい集団の頭(かしら)になっていたのである。


五郎と与吉は目の前に繰り広げられる光景に戦慄した。
(どうしよう・・・どうしたらいいのか)と思っていた。
二人とも喉がカラカラになっていた。


五郎は与吉の目見て、奥の間の横にある裏口を指さすと、
与吉が頷いた。


(裏口よ開いてておくれ!)
五郎は必死で祈った。


二人はそおーっと歩いた。五郎が裏口に触った。
静かに押すと・・・開いた。


五郎がまず出た。そして、与吉が・・・そおーっと出ようとした時、
立てかけてあった板に当たり、板が倒れ「ガタッ」と音がした。


二人は、心臓が凍りつきそうになった。


その音がお堂の男たちに聞こえた。
「誰かいるのか!」と男の一人が叫んだ。


するとその時、
「ニャーオ」という声。一匹の猫が裏口の裏で鳴いたのである。


「なんだ猫か!」ということで、男たちはまた酒盛りをはじめた。


二人は胸をなでおろし、猫に感謝の視線をおくった。


TAKAFUSA その7 陶晴賢 五郎涙する

その7 
 
江田浜での楽しいひと時をすごしてた五郎だったが・・・
 
その三日後、三時をまわった頃、
隆房はふと川に水浴びをしようと思い、タケとマツを連れ近くの牛田山の方へ向かった。
ここには五郎の小さな時からの遊び場なのである。
 
原っぱあり、お気に入りの洞窟あり、川あり、滝あり・・・
遊び場としてはこと欠かない。
 
道から広い草っぱらに出たとき、タケとマツは水を得た魚のように
あっちこっちを走り回っていた。
遠くの方まで行ったタケとマツの姿はどんどん小さくなった。
 
隆房は
「タケー、マツー!!」
と大声で呼んだ。
隆房の声にタケは動きを止め隆房を見つめ、そして次の瞬間隆房の方へ走りはじめた。
(タケ、すっごく速くなったなー)
と思った。
 
マツはまだ向こうの方を駆けまわっている。
 
ふと空を見上げた。
残暑がまだ厳しく続いていたが、夏雲の間にチラホラと秋雲の気配も・・・
 
五郎は、
(あれは何だろう)と思った。
 
黒い点が遠くに見えた。
しばらく見ていると・・・何かの鳥だとわかった。
(なーんだ)
ということで、タケが嬉しそうに駆けてくる方を見た。
 
五郎のもとまでやってきたタキは、五郎の周りをクルクルまわった。
「ワンワン」
遅れてマツもやってきた。
 
「ほーれほれほれ、ほーれほれほれ!」
などと言いながら・・・撫でまわした。タキ・マツももう大喜びで・・・
わんわ、わんわと吠えまわっている。
 
犬二匹と五郎が原っぱを転げまわっていた。
五郎の息も弾んでいた。
 
少し落ち着いて・・・五郎は地面に座り、その横にタキ・マツも佇んでいた。
 
すると、
タケは五郎の元からまた駆けだした。どんどんタケの姿が小さくなっていった。
(やっぱり速くなったなあ)
 
マツは五郎の横で一心不乱に草を噛んでいた。
 
その時、ちょうど五郎の上空高くに、大きな鳶が見えた。
(さっき見えた鳥は・・・鳶だったんだなあ)
と思い鳶の様子を目で追った。
 
突然、鳶は急降下しだした。
(地面に降りるのかな)
と、地面の方に目をやると、タケの姿が目に入った。
 
五郎ははっとした。
(まさか)
タケの方へ向けて駆けだした。
 
必死になり全力で走った。
そして大声で。
「タケー、タケー逃げろ」
と叫んだ。
 
しかし、タケは何も気づかず走っている。
五郎は狂ったようにタケの名を叫んだ。
 
それは、タケが五郎の声に気付いて止まり、五郎の方を振り向いた時だった。
鳶が猛烈な速さで地面すれすれまで舞い降り、一瞬でタケをさらって空を駆け上がっていった。
 
鳶の足につかまれた、タケは手足をもがくように激しく動かしていた。
やがてタケと鳶の姿は見えなくなった。
 
五郎は泣いていた。涙が止まらなかった。マツもじっとして動かなかった。
悲しくてしゃくりあげながら泣き続けた。
 
頭の中に、手足をもがくように動かすタケの姿が何度も何度も思い出された。
五郎は呆然となり、その後どうやって館に帰ったのかも覚えていなかった。
 
五郎のその後の落ち込みは、傍目からみていても気の毒なほどだった。
 
ある日、
その様子を見かねた百乃介が・・・
「五郎様、そろそろ元気をだされないと・・・」
「ああ、わかってはいるのだが」
 
「たかが犬ではございませぬか。また違うのを・・・」
「たかが犬、たかが犬だと!!」と大声を張り上げた。
 
「そうではございませぬか!!」と百乃介も負けずに言った。
 
五郎の中で何かがはじけた。
五郎は次の言葉を吐かずに、百乃介に飛びつき殴りかかっていた。
 
家来の侍に
「五郎様、五郎様、おやめなさい!!」
と止められるまで、殴っていた。
 
百乃介は殴られるままに・・・じっと耐えていた。
 
五郎は家来の腕を振り切って・・・城の外に走り出た。
(ちくしょう、ちくしょう)
と心の中で叫んでいた。
 
 
その日の夜の事・・・
五郎は部屋で端坐していた。
父の命令で・・・鏡の前に座っていた。
 
「己を見つめよ」とのこと。
 
最初反発する気持の強かった五郎だったが・・・
ご飯も食べずに、ずっと・・・
頭に様々なことが浮かんでは消え、浮かんでは消えした。
朝方のことであった。
五郎は「はっ」と気づくものがあり・・・
いつしか、頬を涙が伝わり、肩を震わせていた。
 
父の元へ行き、二人でしばらくなにやら語り合っていたが・・・
最後に父の興房が、
「これからのこと、そちにまかせる」
「はっ」
五郎はいつもより長く頭を下げ、部屋をあとにしていった。
 
百乃介のもとを訪ねた五郎であったが、心の底から百乃介に詫びをいれた。 
謝る五郎も、謝られる百乃介も・・・ともに目に涙を浮かべていた。
 
外では秋の気配を感じさせる涼しい風が、時折、道端の草を揺らしていた。
 

TAKAFUSA その6 陶晴賢 五郎とお栄 デート?

その6


信天翁らによる襲撃事件を経験し、城に戻った五郎だが・・・
朝食後、少し曇った空の下、庭で激しく動いていた。 


「たっー!」
木刀を振り回し・・・柴犬のタキとマツに熱弁を振るっている。 


「よいか、ここでの、この五郎様がしゃがんだ状態から
『ヤー』と声をあげながら飛び上がるのだ。わかるか」


タキがきょとんとしている。マツは横を向きフラフラ脇へ歩きはじめた。


「これちゃんと聞かぬか・・・飛び上がって、そして、
敵と剣を交えて・・・この敵がいやはや何ともすごいのだが・・・
相手がこの五郎様では・・・」
と長々とやっている。


いつのまにか五郎は塚原卜伝に成り代わっていた。
 


五郎の地元では・・・。
山口での出来事がいつのまにかひろがり・・・


「陶の若様が、義隆様をお救いになったんだってね」
「いやー、前からおれは凛々しい坊ちゃんだと思ってたんだ」


などと噂になっている。


確かに五郎は命がけの行為を行い、その強烈な体験は躰に中に刻みつけられていた。
また五郎を見る皆の目も以前とは違ってきて・・・


五郎の顔つきが、山口へ行く前からすると締まったのは間違いない。
が、ただ、まだ多分に幼さは残している。


その日の昼頃・・・
「五郎様、それでその時卜伝様は・・ふむふむ
・・して、その時の顔つきは・・・なるほど」
と何度も何度も五郎に聞くのは、卜伝に憧れている又二郎であった。


又二郎は、口には出さなかったが・・・
(もし俺がその場にいたら・・・刺客を逃すことはなかったのになあ・・・
本当にその場にいなかったのが、いやーまことに残念・・・
俺が行っていれば・・・残念でたまらない)
などと思っていた。



さて、
陶の城に戻った五郎には・・・「せねばならぬ大事なこと」があった。
夕刻、両親がいる時に
「明日は久しぶりに水練と亀吉に会うために江田浜へ行ってまいります」


父の興房が、
「この前もなにやらご馳走になったらしいな。ちょうど雉(きじ)が
手に入ったところだから、土産に持っていけ」
「はっ」


すると母のお藤は
「あのー、雉ではかえって先方に気を遣わせることになるのでは・・・
山菜などの方が・・・」
と遠慮がちに言うと、


「なるほど、さすがじゃわ。五郎そうせい」
「はっ」
「では、明日亀吉に会うて・・・夕刻には戻って参ります」


両親に許可を得た五郎はうきうきしていた。
亀吉は・・・そう、二の次なのである。


五郎の頭には
涼し気な目でニコリと微笑むお栄の姿があった。
(お姉ちゃんに会える。どうやって「かんざし」わたそうか・・・)


五郎は台所に行き・・・
侍女から山菜を受け取った。
「五郎様、崩されませぬようにお願いしますよ」
かごには山菜だけでなく栗や銀杏など、とてもとてもきれいに載せられているものをわたされた。(けっこうすごい・・・でも、雉の方が旨いのになあ・・・あ、そうだ、あれも持っていこう) 


五郎は侍女に頼んで・・・


そう、あれ・・・「煎り酒」を竹筒にいれてもらったのである。


「煎り酒」とは、日本の古い調味料で・・・
日本酒に梅干を入れて(昆布や鰹をいれることもある)煮詰めたもので、
江戸時代に醤油が普及する前はよく用いられていた。


五郎は本当に好きではなかった。いや、実はとても嫌いなのだ。
・・・何が・・・。「酢」がである。
海が側(そば)なので城でも魚が頻繁に出るが・・・


当時刺身などは、酢にしょうがや辛子をいれて食べるのが一般的なのだが、
五郎は、そっちにはつけずに塩(しょ)っぱい味の「煎り酒」ばかりに浸けるので・・・


普段は優しい母のお藤も目を光らせながら、
「五郎殿、酢につけなされ!」と口うるさく言っていた。


この前、江田浜でご馳走になった時も、亀吉が
「これ旨いぜ!」
刺身をしょうが酢でくれたのだが、酢が体に入ると、
(うへーー)
というような、なんともいえない感じで・・・少し箸をつけたけで終わったのである。
 


次の日、朝早く五郎は城を出た。
今回の供は、又二郎・百乃介・与吉ではなく・・・タキとマツだった。
(あいつらと一緒だと・・・とても無理だもんな。かんざし渡すの)


一行は江田浜めざし、野犬が出た山は避けて歩みをすすめた。


途中、また「五郎劇場」がはじまった。観客は、タキとマツだけである。


「よいか、タキ・マツ。そこでおれは『たっー』と高く飛び上がり・・・」と言い、
本当に飛び上がったのだったが・・・


不運にも着地したところに丸い石が・・・
「あーーっ」と
五郎は豪快にひっくり返った。
背中に風呂敷で固定していた山菜や栗どが全部外に散らばっていた。


左ひじと右ほおからは、傷はたいしたことはないだが・・・血が・・・。
着物も右胸のあたりが破けてしまっていた。


すぐに懐の「かんざし」をみたが、どうもなってなくてほっとしたが・・・
五郎の気持はいっきに沈んだでいった。
 


江田浜に着き・・・
亀吉の家を訪ねた。出てきたのはお栄だった。
「五郎様!また犬に襲われたのですか・・・大丈夫ですか」
五郎が山口に行っている間に又二郎らが来て、その話を伝えていたのである。


「いや、そうではなく、道で転んでしまって・・・全然大丈夫」
元気がない五郎に対し、タキとマツはわんわ吠えながら嬉しそうに走り回っている。


「かわいいですね・・・
今日はあいにく亀吉は父ちゃんと海へ出ていて・・・、
母ちゃんもばあちゃんらと出かけて、私しかいないのですよ。
とにかく汚いところですが上がってください。傷を・・・」


五郎は家に上がり・・・お栄に傷口を丁寧に拭いてもらった。


お栄の顔が近づくたびに・・・
五郎は少し体が硬くし・・・顔が赤くなってしまい・・・何も言えなかった。
とてもいい香りがした。


傷の次には、着物を破れたところを縫ってもらった。
「五郎様、じっとしててくださいね」


目の下に、お栄の頭からうなじ、そしてほっそりとした首が・・・
心が何かどきどきざわつくのだが・・・何か心地いいものだった。


「はい、五郎様・・・終わりましたよ」
「あ、ありがとう」


「せっかくなので・・・今朝獲れたクロダイなどがありますので・・・
何かつくりますね。」


「あ、母上がこれを持っていけって・・・本当は本当はきれいだったんだけど・・・」
と風呂敷を解いて、ぐちゃぐちゃになった山菜のザルをお栄に渡した。


「あーー嬉しい、あんまり手に入らないのがいっぱいある。ありがとうございます。
みんな喜びます。くれぐれも、よろしく伝えておいてください」


お栄は、パパッと刺身や汁や野菜の煮物などつくり、ほし貝も膳の上に出した。
また、タキとマツにも餌をつくってやった。


五郎が煎り酒を出し・・・お栄がそれで刺身を食べると・・・
「あっらーーびっくりしたわ。なんて品のいい。とっても美味しいー!」
と二段高い少し素っ頓狂声で言ったもんだから・・・


アハハと二人で大笑いした。


それで五郎も緊張がとけ、楽しい時間が流れた。


山口での武勇伝など・・・五郎はいっぱい話した。
「うんうん」とお栄は微笑みうなづきながら聞いてくれた。


海岸をタキ・マツと一緒に歩いたりもした。
真っ青な海、寄せては返す白い波、空に浮かぶ白い雲、そのすべてが眩しく見えた。



帰る時刻が近づいた。肝心のことを忘れていた。かんざしである。
五郎は去り際に渡すことに決めた。


家の外に送りに出てきたお栄に・・・
「これー、山口でお姉ちゃんにと思って・・・」
と五郎は早鐘のような胸の鼓動を感じながら、かんざしをお栄に差し出した。


一瞬
「えっ」という顔をしたお栄だったが・・・


そのあとすぐに
「五郎様、ありがとうございます」
涼しい目がうれしくてたまらないようにキラキラ光っていた。



その帰り道、五郎は
(おねえちゃん いいにおいしたなあ)
と思い、お栄の顔を思い浮かべたていた。


行き道に沈んでいた五郎の心は、からりと晴れわたっていた。
タキ・マツが五郎の横で、またわんわと吠えていた。